昭和55年9月18日    月次祭

                         末永信太郎



(途中から)
 ・・・果物のかごには、それこそ、秋の味覚がいっぱい。もう、柿が出てる、みかんが、ぶどう、ナシ。もう、それこそ、秋の味覚を、一かごに集めたような、言うならば、天地のめぐみをあの一かごに集めたような感じでしたね。盛り方も、見事に盛ってございました。あれが、私ども一軒一軒の家の上にも、あのような天地のめぐみをいっぱい受けたばかりの集まりであるというようになったら、さぞかし、素晴らしいことでしょう。味も、それぞれの味があり、ね、その色と言い、味と言い、それぞれの持ち味を生かして、一かごに、こう、盛り上げてある。
 家庭の上にも、そういうおかげを頂きたい、お教会の上にも、そういうおかげを頂きたい。ね。いわゆる、天地のめぐみを、それぞれがいっぱいに頂き、蒙りたいと言うのです。今朝からの御理解の中に、木や竹は折れる、金の杖をつけば曲がる、と。神を杖につけば、楽じゃという御理解がございます。まあ、その御理解に基づいてでございましたが、お互い、もう金光様一本だ、私は神様を信じておると、まあ、信じておらんわけではありませんけれども、思うておりますけれども、ね、いよいよの時になりますと、心もとなかったり、寂しかったり、腹が立ったり、イライラしたりであります。ね。
 楽じゃと仰せられるのですから、どんな場合であっても、ね、神様を信じきって、神を杖についておれば楽なはずなのですけれども、楽でないところに、私どもの、これからの精進が、また、目指しがいよいよはっきりして来なければならんという事になります。ね。
 教主金光様のお歌の中にもございますように、「頼りなきものを頼りにするゆえに、この頼りなき心なるかも」と。本当に、神様を頼りにし、神様を杖についておれば、ね、そんな寂しい心は起こって来ないのだけれども、神様、金光様とは言うておりながら、まだまだ、ね、人に頼り、物に頼り、いや、家の息子だけはと、いや、私の腕にという風に、頼りにならないものを頼りにしておるから、いよいよ、もう、腕を頼った人が腕を怪我した、(チュウブ?)になっとったら、もう頼りにならない。ね。
 息子だけは頼りにと思うておったけれども、ね、その息子がなかなか親の言うことを聞かない。もう、こげな息子ならば、もう、持たん方がマシだったというようなことにすら、なりかねないのです。もう、これは椛目時代のお話ですけれども、息子さんが、粟粒結核で、大変重体に陥った時に、北野のこう滝さんが粟粒結核で、助からんところを助かったという話を聞いて、お参りしてみえた。まあ、一生懸命にお参りをさせて頂いた。なかなか、頭のいいお母さんでしたが。
 もう、それこそ、もう、一切の物にお礼を言う。もう、それこそ、マッチ一本すらして頂いても、本当に有り難い、その、マッチの燃えた熟にでも、お礼を言うというくらいに、まあ、一生懸命、まあ、教えに徹しながら信心を進めて行くうちに、おかげを頂いて、退院のおかげを頂き、元気になった。ね。
 ところが、元気になったら、その息子さんが、村の良くない友達と付き合いをするようになって、ある時に、村の牛泥棒をした。まあ、若いモンの、まあ、何とか心理じゃないでしょうかね。もう、皆でその牛を、それが、新聞にまで載った。ね。そん時に、お母さんが、それこそ、泣いてお届けに参りました。親先生、もう、アン時に助けてもらわんが良かったち。こんな恥さらしな事をしてから、もう、本当に親先生、あん時に、もう、助けてもらわん方が良かった、死んどった方が良かったと言うて、嘆かれたことがございました。ね。
 頂いたおかげに対して、かえって、不足が出るようなことであってはならんのです。いよいよ、おかげがおかげになって行くことのために、いわば、頼りになるもの。それは、もう、信心、神様以外にはない。今日の昼の研修の時に、朝の研修を致しますから、私が、いつも、これは例に申します。私が、どのくらい人を頼っていないかという、一つの、まあ、例としてです、ね、総代さん方が、合楽では珍しい総代さん方ばかりがおられます。
 けれども、私は、「私は、あんた方総代には頼っていないよ」。ね。もう、頼られとると思うとるけん、一生懸命しとったけれども、もう、頼りきらんごたるならば、もう、御用もせんといったような総代は、一人もいない。もう、親先生、そうどころじゃありません。貴方のそういう信心に、私どもは、まあ、言うならば惚れ込んで、総代の御用もさせて頂いておるのですというような、顔を皆しとるがのと言うて、今朝話したことでした。
 ね、親先生が人を頼っちゃない、物を頼っちゃない。それは、言うならば、家内であろうが、息子達であろうが、ね、本当に頼りになるものは、神様だけだという生き方である。だから、私は、誰よりも楽な、言うならば生き方をさせて頂いておることになるのです。ね。
 昨日、伊万里の竹内のお母さんが、新しい御信者を二人お導きして参って見えられて、先日、ビリグイからお手紙を頂きましたと言うて、竹内先生宛、お母さん宛、それから和教さん達夫婦宛の手紙を持ってみえる。で、この頃、目が薄いから、読めませんから、坂根先生がそこで読んでくれました。もう、本当におかげを頂いておるのが、ずっと書いてございます中に、和教さんたち夫婦の手紙の中に、本当に、和教さん、貴方は、もう本当に幸せだ、と。伊万里の御両親と言い、久留米の御両親と言い、もう最高の両親を頂かれて、ね、本当にあなた方が夫婦幸せになって、これから行かれるならば、もう、いよいよ合楽理念の見事な実験実証者だと書いてあった。
 私は、そこんところを聞きよる内に、胸が詰まるように感動した。ね。皆さん、一つ、竹内先生のところの、いわば、それこそ真善美輝かんばかりのおかげが、だんだんおかげになって行っておる。佐田さんの所言うても然りである。言うならば、合楽の信心のちょっとした見本である。家族が、ね、勢をそろえて、しかも、今日の、ね、秋の果物のお盛りつけじゃないですけれども、ね、(  )が足るような。ね、それこそ、秋のその味覚をいっぱいの、一軒の家に盛り上げて眺めておるような気が致します。
 一人ひとりが天地のめぐみを受けて、いっぱいに幸せな生活をさせて頂いておる。ね、これはもう、佐田さん両方の家に言えることである。しかも、佐田さんならば、一人息子の恵介君が学院に行くと言えば、それを、ね、「あんただけは」と言わずに、それはない。もう、頼りにするのは、恵介でもなからなければ、娘達でもない。今度、娘さんが二人おる、一人が今、伊万里に行って、ま一人おる。その娘さんが、近い、この十月ですか、結婚いたします。
 そすと、もう、夫婦だけになるわけ。もう、それで、その、寂しいとか、そういうことでは、ぜんぜんない。そんなものも感じられない。もう、ただ、神様一心におすがりをし、神を杖についての、いわば、一家であるからこそ、それが出来る。それじゃ困ったことになるかと言うと、困ったことではない。いよいよ、合楽理念に基づけば、商売は合楽理念を持ってする他はなし、健康管理は然りである、と。人間関係も、そうである。
 もう、合楽理念を行じて行く限り、どのような場合であっても、おかげが受けられると確信しての、言うならば、日々の信心生活である。これは、竹内先生のところにおいても、然りである。二人息子の長男がお道の教師になる、と。「はあ、あんた、もう・・・」と言わない。ね。これは、神様を信じきる、言うならば、神を杖についておるからこそ出ける、まあ、脇から見たら、離れ業とも思われるような感じなのですけれども、そこにね、合楽理念の、言うならば素晴らしさ、有り難さがあるという風に思うんです。ね。
 昨日は合楽会でございましたが、皆さんがいろいろ発表の中に、総代の大和さんが発表しておられました。あれは、どこでも同じような事が言えるですね、もう、私どもの家族なんか、今日はどこか行こうち言い出すと、もう、時間ぎりぎりまで、いつまっでん、その、着物ば着替えたり、帯を解いたりしてから、「何しよるか、いつまっでん」ち言うと、家内が腹けえちから、「もう、私はいかん」ちいうようなことがね、昔はございましたです。
 やっぱ、大和さんも、そんなものを奥さんに感じられるらしい。ね。早うせんかち言いたいけれども、それを私は申しません、ジッと辛抱する、それが信心だ。だから、乞ったことも言わんという意味の発表をなさっておられましたから、私は申しました。何事にも信心になれと仰せられるから、お互いが、何事にも信心になる、がたがた言わん、何しよるかとも言わん。自分の心一つに治めて行くということも信心なのだけれども、合楽の信心は、その信心のもう一つ向こうの信心。
 言うならば、ね、本当の、もう一つ向こうの本当の信心を求め、そして追求しながらの信心を、合楽理念に基づく生き方だと言っておるのです。ね。だから、そこんところが、いわば、ジッと言わずに堪えておるというのではなくて、そのことに対してお礼が言えれるような心の状態が、合楽理念による一切の答えなのです。
 今日もある方が、今日は昼から参ってきて、研修が終わるまでおられましたが、もう、本当に合楽理念をだんだん体得させて頂きよる。本当に有り難い有り難いと言うておられるけれども、有り難い有り難いと言うておられると、困ったことが起こってくる。もう、今度なんかは、もう、本当に、まあ、踏んだり蹴ったりといったようなご主人の問題が起こっておる。
 話を聞いておっても、ほんに腹も立とうな、情けなくもあろうなと思うような事件が起こっておる。ね。それでも、やはり合楽理念をいよいよ紐解かせて頂くと、これは、大きな御神愛に違いはないと、だんだん、頭でも分かってきた。今日は、そのお礼に出て来られた。上野先生が、かかって今日はお話をしておったが、帰りがけには、もう、ここで、苦しいから泣きなさるとじゃなかろうごたった。
 ね、神様のそういう大きな御神愛の手にかかっておるんだ。ね。神様の御神愛がこのような形で現れておるんだと思いますと、神様が助けずにはおかん、徳を与えずにはおかんという思し召しがこのような問題であると思うたら、有り難いと言うて、泣いてお礼を申されましたが、私が御神眼に頂くのがね、今、テレビで「江戸を切る」というのが、私は、ちょうど夕食の時にありよるんです。それは、あれは、西郷照彦が、何か、富山の金さんかな、をやってます。
 その、いつも悪役の方に、顔のこんなに大きな、目とかこんなに大きいとがおりましょうが、悪役の、あれは何とかって言う。もう、顔を見たばっかりで(     )とがおるです。ね。どうでしょう、富山金さんは男前で、もう、それこそ皆の恩を受けに受けて行く役柄なんです。だから、その役柄をいよいよ引き立てさせるために、その悪役の方が優しいごたるなら、ね、優男であっては、いわば、金さんが引き立たないでしょうが。
 その悪役、あれは何とかと言うね、悪役のね、ほんなこんな、一遍見てみなさい、夕方のありよる。(笑)それが、私どもの周辺にいつもあるという事なんです。もう、面見るとも、面見苦しかというごたるとが、私を引き立てて下さることのために、言うならば、お徳を下さるために、力を与えて下さろうとする働きになるためにある。私はそれを頂いた後に、本当に、また、追いかけて行ってその事ば言ようかと、こう思うたぐらいでした。
 けれども、本人は、もう有り難いで、それこそ涙流してお礼を言うておられるから、まあ、本当におかげを受けてもらわねばならんと思うて、思いましたけれども、なるほど、神様はそういう手の込んだ演出をまでなさって、徳を下さろう、言うならば、力を与えて下さろうとする働きがあるのです。だから、信心は面白いと。ね。
 はあ、また売れた、また売れたばっかでは、いっちょん面白うないですよ、きっと。売れたり売れなかったり、ね、そこに、先月からも頂きますように、ね、それこそ、商売をするならば、(おりてかいてという    ?)の御理解がございます。ね。その御理解を2~3日前に頂きました時に、こういう御理解を頂いた。ある教会にご縁を頂いておった人が、最近ここへお参りをして見えます。その方の前におられる方が、もう、大変難儀である。もう、見ちゃおられん。お導きをするけれども、もう、金光様(なってん嫌い?)と言うて逃げられる。ね。
 その方の息子さんは、もとお道の教師にまでなられた。お父さんが亡くなられる時に、もう、金光様じゃいかんち。だから、もとの真宗か、何か仏教で、俺が死んだら、仏教で葬式してくれち言わっしゃった。と言うて、亡くなられる。そこで、息子さんが金光様を本気でやめて、もう、それこそ(  )しゅう、お座敷いっぱいにお祭りしてあったお社を教会に返して来なさった。
 それは、教会の先生もモヤモヤしなさったでしょうね、それで。それで、とうとう、そればあなた、下駄箱にしなさったげな。よかち、中身、護神な抜いとるけんでよかち、下駄箱にせんのち言うちから、下駄箱にさっしゃった。もちろん、教会もごひれいが落ちる、または、やめたその人達もおかげを落として、今難儀しておられるというお届けがありました。
 そしたらね、私の御神眼に、傘に毛の生えとるところば頂いた。傘に毛が生えるなんてんちゅうのはありませんでしょうけど、まあ、御神眼です、御理解です。傘というのは、ここでは安心と言われます。ね。私どもが信心をさせて頂いて、特にに合楽ではです、この辺のところに、言うならば、間違いのもとが起こってくるような感じがするんです。人間が人間らしゅう、もう、それこそ、楽しゅう愉快に、ね、それこそ、有り難い信心をして行く。合楽の信心は、ね、簡単です、明瞭です、しかも、おかげが確かですといったような、まあ、キャッチフレーズなんです。ね。
 本当に、その気になって信心をすりゃ、信心っちゃ、こんなにも楽しいものか、有り難いものかになって来るんですけれども。ね、ただ、おかげだけに幻惑されてから、合楽合楽と言うておると、合楽に参ったけれども、言うなら、おかげにならなかったとか、寂しかったりするのです。ね。それを持って、いよいよ稽古の手立てが、合楽理念には、もうそれこそ、ね、微に入り細に渡って説いてあるんです。ね。
 昨日、お参りしてみえた方が、ある、昼の御祈念にお参りをした。皆さんがここで、修行生、お参りの方達いっぱいで一時の御祈念があっておる。ところが、自分は、大払いがようあがらなかった。もう、長年信心しておるけれども、大払いひとつあげられなかったということに、非常に、まあ、痛く感じた。それから三日間、三日間で天津祝詞大払いを、一人で大払いがあげられるようにおかげを頂いた。で、私が、その方が参ってきた時に申しました。
 もう、あんたが願やあ、その一心でおかげを頂くよと。信心とは、一心を立てることなんだ。大払いなんかていうものは、本気で覚えようと思ったら、一日で覚えるです。それを、十年経ったっちゃ、まだあがらんごたることでは、なるほど、おかげが頂けんはずだな、一心がないことが分かるでしょう。ね。そういう一心を持って、言うなら、いよいよ合楽理念の勉強もさせてもらう。ね、合楽理念の実験実証もさせてもろうて、喜びと、言うならば驚きの生活の中でです、ね、一人の信心が、夫婦、親子、兄弟、身内の者が一緒に信心をさせて頂くようなおかげを頂いて、それぞれが、ね、神を杖につくことの信心の、言うならば楽しさ。ね。
 神を杖につけば楽じゃ。いよいよ問題はあろう。けれども、親先生はどう仰るかというところで、話がぴたっと、こう合うて行くような、ね、一家が勢をそろえた信心にならせて頂く時にです、今日の御大祭の、あの、いや、このお祭りの果物かごに見るようなです、ね、本当に、秋の味覚だなと。しかも、粒選りの果物がいっぱい、この、高くこう、盛り上げてあるような、一つ、家庭の信心にならせて頂きたい。
 いよいよ、23日の月次祭は、月次祭に合わせ、一時から、御霊のお祭りがございます。ね。家族中が、それこそ、それぞれの持ち味を、ね、充分に生かさせて頂く。先日、総会は、大祭の、一月前に行われる総会。いよいよ、その手がかりを頂いてという信徒会長のお話がありましたから、私がその事を申させてもらいました。ね。
 大祭、一月後の大祭を、いよいよ、こうやってするために、本気で、言うならば、教えを行じようじゃないか。今、合楽では、ね、言うなら、人の悪口を言わない、人の批判しない。悪口は言いよらんと思いよったばってん、批判はしよった、と。私は自身でそう思うんです。ね、批判も、やっぱり悪口です。ね。ですから、どうぞ、その、一月後の御大祭に向かってです、これに徹する、言うならば生き方を身につけさせて頂いて、そっから実験、そして実証の出けれる喜びを持って、大祭の手がかりとしたい。
 まっ、今晩は、言うなら、御霊のお祭りの手がかりであります。ね。もう、それこそ、御霊のお祭りといえば、家族をあげて、それこそ、親族家族の御霊、先祖代々の御霊様と私どもの、一家中の者をうちそろうて、玉串を奉らせてもらう、その玉串が、それぞれの、ね、子供は子供、親は親の持ち味をです、ね、充分に生かしての、いわば、霊祭でありたいと思うております。ね。
 23日の御霊様のお祭りには、いよいよ、ね、ご先祖の御霊様と交流の出けれるようなお祭りでありたい為にです、その時だけ、ただ、前の日にお供えを持って、そして、明くる日お参りをすればいいというのじゃなくてね、そういう、お先祖に対する、言うならば、親を大切にするということは、お先祖を大切にするということでもあると思うんです。いよいよ、心の込もったお祭りを奉仕させて頂きたいと思うております。
 ビリグイから参っております中に、昨日、一昨日ここへ参りましたが、本式に、あちらの教会敷地を頂くことになったという、大きな地図を送って来ております。ちょうど、(一兆三段?)あるそうですから、ここと、まったく同じ広さであります。ね。まあ、そういうすさまじい働きが、ね、海の向こうと言うか、地球の裏側で、合楽のごひれいが輝き渡る、言うならば、一つの躍動を感じます。
 私どもの上にも、どうぞ、そういう働きが頂けれる・・・昨日、一昨日でしたかね、浦賀の教会の、大変優雅な御信者さんだそうですが、こちらへ、まあ、見学に見えられました。ちょうど総会、そして、私が風邪具合が悪くて休むといったようなことで、お話が出けなかったですけれども、それが、かえっておかげであった。
 上野先生が、三時間半に渡って、大接間でお話をして。もう、それこそ、椛目時代から知ってますから、ずっこん合楽の話を聞いて、もう、えらい感動された。実は、私が今度、合楽に参りますのは、何か本部で、調べ物をしておりました。そしたら、修行生が育っておる、それがグラフのようなものに表されてあるのに、ね、合楽が、ね、一番多い。いわゆる、合楽が、修行生が育っているというのでは、日本一ということが分かりました。
 私も、それを聞いて初めて、はあ、そげな事ですかと言うて、思うた事でございますけれども。ね、まだ十三年、きてならないですよね。それで、まあ、言うならば、修行生が育つということは、その修行生一人ひとりの上に、もう、どれだけのたくさんな人が助かって行くか、これから分からないほどしの、言うならば、夢があるわけである。
 合楽には、そういう、それこそ、夢のある生き方というものがね、今日の、たとえば修行でも、言うなら、それが修行というか、苦労というのではなくて、修行では、いわゆる、精進の手立てなのであります。ね。精進しなければ、いけません。それこそ、私どもが、ね、人間が人間らしゅう生きるということが、ね、ただ、食べ放題、し放題のことで良いということではありません。
 そういう間違いをするところがあるんですね。御の字さえつければ、あんた、どんなことをしてもええとか、何を食べてもいいとかといったような、何を頂いてもいいといったような、その、ところに、ね、けじめがつかんでおるような向きがあります。それは、もう、大食は絶食のもと、大食は絶食のもとという、教祖の御教えがある通りですから、精進の心がないと、つい、そういう、人間が人間らしゅうではなくて、人間らしからぬ生き方になってしまうような事にすら、なりかねないのです。
 だんだんおかげを頂いておる内に、自分の心の中に頂いておる、ね、はあ、もう、御の字さえつけて頂けばで、人間が人間らしゅうな事ばっか言うてる内に、その安心と思うておるその安心に、毛の生えておるようなことはないでしょうか。はあ、もうあん奴は心臓が強かて、強か段じゃない、心臓に毛の生えとるち言うでしょうが。それなんです。
 私どもが頂いておる信心の、安心の傘にね、毛の生えておるようなことでは、これは、ね、大きなおかげを落とすもとにもなりかねません。その辺のところを、一つ、精進の心を持って、いよいよ、ね、一番手前の方から言うと、23日の御霊様のお祭りに精進の心をね、御霊様との交流の頂けれる心としての、おかげを頂きたいと思います。どうぞ。